管理人の「独り言」

2023.02.18

30  「失敗の受け入れ」と「エゴの切り捨て」

 

「ごめんなさい!」で自分と向き合った次は、「エゴ」と戦おう!!

前回は、「ごめんなさい!」について書きました。

「ごめんなさい!」の次の段階で自分と向き合う戦いに、「エゴとの闘い」があると感じました。

さて、いきなりですが問題です。

 

 タイトルにあるように、

「失敗の受け入れ」と「エゴの切り捨て」はどちらが難しいでしょうか?←超重要です。

 

ちなみに「ごめんなさい!」は、つまり自分自身の過ちや失敗を認めることです。

対して「エゴ」は、自我であり、うぬぼれや自利です。

 

ここからは、管理人の体験談になります。

結論から言うと、「エゴの切り捨て」の方が何十倍もはるかに難しい。

「エゴ」という言葉自体すごく難しく、その意味や感覚を理解し難いと思いますが、

例えで言うと、

失敗の受け入れ」は、自分の身体を鏡と向き合わせて、自己分析や反省し、欠点を認め改心する感じ。

「エゴの切り捨て」は、制御不能で暴れまわっている自身の右腕を、自らの手で切り落とす作業に近い。

 

「失敗の受け入れ」は、自分で認めたら改善の余地があり痛みは表面的で数日間程度ちょっと苦しいぐらい。だけど、「エゴの切り捨て」は癌かもしれない悪い部分を丸ごと自ら切り落とす感覚に近い。自身の身体を失う感覚と同等でその痛みは半端ではない。痛みは数か月にもおよび、体の悲鳴だけでなく心の嘆きにも近い。。片腕を完全に失った感覚に近い

しかし「切り落とす」という作業は、自己を否定するという意味でもなく、自分を強くするために切り落とす感覚に近い。

↑この例えは分かりにくいかもしれないですが、精一杯表現しています。

 

でも、この作業を乗り越えた時、より「エゴ」というものがクリアに見えてきて、心の透明感が増す。

だけど「エゴ」って、本当に難しい。

管理人はあることをきっかけに、自分のエゴを認識できたことがあったけれど、実は自分ではとても気が付きにくいものだった。

なぜなら、エゴは自分自身の身体の一部であり、自らはなかな見えないものということが分かった。

自分の顔が自分で見れないのと同じかな?

 

そして、ここから大事なこと。

「エゴ」は決して悪いものでもなく、自分を成長させてくれるとても大切なもの。

生きている限り、全人類誰にでも存在するもの。そして必要不可欠なもので全否定するものでもない。

だけどエゴはいずれ必ず暴走するもの。だからこそ暴走する前に、自らの意思で判断を下し自身を切り落とす。これが辛い。本当に。

泣きながら、この作業を行った。自らの意思で行うことがとてもとても大切。

 

その結果、激痛とも思える心の痛みは数か月にも及んだ。

しかし痛みに耐えた自分は、より自身を深く深く見えるようになってきた。切り落として良かったとさえ思えた。

そして心の状態は以前より数倍もコントロールができるようになり、清らかな状態ってどういうものかが見えてきた。

更に自利と利他の違いがなんとなくですが見えるようになってきた。また多くのことに動じなくなってきた。

これらはとても不思議な感覚で、これから先、もっと成長出来ると思った。

 

いや~、それにしても「エゴの切り捨て」は激痛~!!( ;∀;)

実際に身体を切っている訳ではないのに、感覚的にそんな感じです。

興味ある人は、試してみてくださ~い。

でもそのあとの自分は変わりますよ~~。。

 

あと、ことわざの「過ぎたるは猶及ばざるが如し。」

簡単に言えば、やりすぎは良くないということだけど、このやりすぎは「エゴ」の部分。

だから良くないんだ!!って気が付いた。

奥が深いな~~~。ほんと。(*^▽^*)

  

今日の内容はとても重要なので、メモとして残しま~す。

 

※過ぎたるは猶及ばざるが如し

何をするにも、いき過ぎになっているとそれがどんなに良いことでも、むしろ不足ぎみや、不満足な状態と変わらないのです。つまり、度が過ぎたものは、足りないものと同じぐらい良くない。

 

 


ものづくりで学んだこと

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