管理人の「独り言」

2022.11.10

20 「平等」について学ぶ

 

何かを感じるという心の学びは、誰にでも与えられた平等

管理人の個人的な意見なのですが、

世の中は、「平等」ではないし「公平」な社会ではないと思っていた。不条理なことも沢山ある。

そして「平等」と「不平等」があるからこそ、社会全体としては均衡が保たれるとも思っていた。

だから、俯瞰した視点がとても大切なことと思っていました。

 

同じ両親のもとで生まれた兄弟でも他人から見ると平等に見えるけれど、兄弟間では不平等さを感じることも少なくない。

「お兄ちゃんはOKなのに、弟の僕はダメなの?」

長男至上主義のご家庭では日常茶飯事。

またその時の社会情勢や環境にによってご両親の教育状況も変わる。

景気に左右されたり病気になれば、兄弟間でも教育費が変わってくる。

「時代」という時間軸がある限り「平等な社会」にするのは難しいと思う。

もっと世界を見れば、先進国と発展途上国とでは比較できないほど差がある。

だから「平等」は理想論であって、なるべく視点をミクロからマクロで考えなければいけないと常に考えていた。

 

そしてある本を読んだとき、平等には他の視点があることに気が付いた。

管理人が考えていた「平等」「不平等」は一面的な視点だったと思った。

 

この本では「平等」とは、

全ての人の心は様々であり、行動もまた様々で、それぞれに個性をもった生き方をする。しかし様々な立場にあっても、人それぞれに誠実な生き方、真心、清純な愛の行動にあるとき、その人本来の心が生き、その心はすべての人の心と一つに溶け合うものである。これを平等という。

 

この本は、とてもとても難しい本。

私がここから得た「平等」とは、人が一生懸命努力し感じる心、人と人とが接し何かを学んだり体得する心、そしてこれらをみんなで分かち合って味わう喜びの心、この感性のような心の学びは誰にでも与えられている平等ということだった。

 

話は少し変わりますが、

昨年、大好きな叔父が危篤状態になり、もう最後と思って東京から北海道の病院へ行きました。

叔父はもう体を動かすことも話すことすらも出来ない状況で、余命はあと1週間と宣告させていました。親戚は喪服の準備を始めていました。意識はかろうじてあったものの、高齢と認知症も患っていたので私のことは認識できないかも?と覚悟していました。そして病院に入り、大好きな想い出の食べ物を手に取って見せたり、頬に顔を近づけスリスリしたりマッサージをしていたところ、叔父の顔がほんの微かだけ動いた。そして最後の力を振り絞り微かな声で「あ~、あ~(ありがとう)」と話した。全く喋れない状態から奇跡の状況だった。目尻がほんの僅か動き、にこっと動いた。親戚一同が驚いた。

その後奇跡的な回復し、通常の会話が出来るところまで一時的に元気になった。手も動くようになり、お医者様をはじめ親戚みんなが驚いた。普通はこの状況から回復はあり得ない・・・と。

とはいえ、コロナもあり面会が思うように許可下りず、その半年後他界した。それでも奇跡的な最後だった。

 

この時の出来事は私の人生にとって非常に大きな意味をもった。

そして、どんなに高齢で身体が不自由でもその肉体の内側にある隠された感情は正常なんだと思った。外から見ると自由に身体を動かせない末期患者には心がないとみんな思い込んでしまう。しかし体が不自由でも心は自由。心までは病んでいない。そして嬉しさを感じる感情はどんな状況でもあると思った。

 

この話には、続きがある。

身体が不自由でも心はちゃんと誰にでもあることに気が付いた管理人は、叔父の葬儀のとき従妹の子の障害をもった子に同じように接した。この子は叔父にとって孫にあたる存在。言葉は自分の欲しいものぐらいしか話せず、服のボタンも一人では留めることができない。手足が少し不自由だったので、養護学校に通うことが決まっていた。

管理人は「叔父と同じように身体は不自由だけど、心は正常なのでは?」と思い相手のペースに合わせゆっくり話しかけた。そして直ぐに打ち解けてくれ心を開いてくれた。スリッパを蹴ったり単純なゲームをしながら一緒に遊んだ。彼は大好きなぬいぐるみをくれた。彼と触れて簡単な会話をしていくうちに、「本当は養護学校に通いたくない、僕は普通だ!」という感情が強く伝わった。だけど誰も理解してくれない・・・という孤独を強く感じた。

 

この子にも叔父と同様の事を感じた。

どんなに身体が不自由でもその内側には純粋な心があるということ。本当は心の感情はとても豊かで、筋肉が動かないからこそ感情と肉体のギャップに挟まれ、気持ちが伝わらないというストレスを感じ心を閉ざしてしまっているということ。また周りは「体が不自由=心が失われている」と勝手に判断していること。

 

これらの経験から、どんなに肉体が不自由でもその内側にある感情を感じる心は誰にでもあり、そして最後まで失われないことを学びました。また「何かを感じる心」「何かを分かち合う心」といった心の学びや豊かさは誰でも平等であることを学びました。

 

そう思うと、今まで表面的な「平等」しか理解していなかったなぁ・・・と思いました。

 


ものづくりで学んだこと

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