コロナ期間中、光学業界の中でとても有名な先生がご病気で他界されました。享年84歳。
管理人にとっては「先生」というより「優しいおじいちゃん」のような存在でとても可愛がって頂きました。ご病気で倒れられる前々日にわらび餅を持って弊社へいらしてくださったのが最後で目に焼き付いて忘れられません。今でも涙が出ます。
その後、闘病中に最後の力を振り絞り執筆されました油先生の遺作「下町に光学設計」をここに掲載したいと思います。
油先生の技術者としての「想い」が一人でも多くの人に伝わることを切に願っております。
ご冥福を心よりお祈り申し上げます。
また内容につきましては、現社長 油鉄一郎様のご許可を頂きまして掲載させて頂いております。
ご協力に深い感謝と御礼を申し上げます。
昭和11年4月6日生まれ
1936年 石川県出身
1959年 金沢大学理学部物理学科卒業
1959年 (株)三協精機製作所入社
1964年 (株)保谷硝子入社
1967年 東京光学機械(株)入社
1980年 (株)ユーカリ光学研究所を設立
2020年 ご病気により死去
ユーカリ光学研究所について https://yucaly.com/
(株)ユーカリ光学研究所は1980年創業。光学機器の試作開発会社として長きにわたり,カメラ,望遠鏡,顕微鏡,赤外線,紫外線,可視光線と,用途や大きさの大小にかかわらず,さまざまな試作・開発に携わった経験をいかし,専業メーカにはない独自のノウハウを保有している。本質は光学専門のコンサルティングとしているが,商品開発から設計,試作まで自社一貫作業が可能であり,凸レンズ1枚から衛星搭載用光学装置まで対応可能な「受託開発」をはじめ,「試作サービス」「測定サービス」「設計サービス」のほか光学技術,開発コンサルティング多彩なサービスを提供している
CONTENTS
4-1 画角の規定
4-2 明るさの規定
4-3 解像力または分解能
4-4 量産時の製造原価
6-1 近軸領域の設計 -6個の基礎的数値
6-2 近軸領域の設計 -色収差の設定
6-3 近軸領域の設計 – パワー配分
6-4 近軸領域の設計 - ペッツヴァール和の設定
6-5 近軸領域の設計 - レンズ設計の必要条件
1.はじめに
「光学設計のあれこれ」を題材とした話をするにあたり,当社のような大企業とは異なる町工場的な会社におけるお話をさせていただきたいと思う。
当社の所在する東京都板橋区は古くから光学の町として知られており,下町情緒あふれる昔ながらの雰囲気が所々にまだ残っている。今回は長年にわたりこの板橋にて光学設計に携わってきた当社相談役から下町の光学設計の話をしていきたいと思う。
2.下町の光学
戦後75年を経て日本の産業界,特に製造業に関しては大企業が要所を押さえ,その下部に中小企業各々が柱とする大手の下部に群がり,ある種の工程別社会を築いてきたのは読者諸兄のご承知の通りである。しかし40~50年くらい前から製造原価の安さにより開発途上国へ製造を委託する流れが激しさを増す一方,先記した国内製造業の秩序だった社会は瞬時に姿を消すことになったのも周知の事実である。
これらの社会の変化に関する記述は数知れずあるがそのほとんどが大企業の社史等に偏っているのが現実であろう。中小企業や零細企業がこの時期にいかなる手法により企業の技術的ノウハウを継承してきたかを記述した文1)もあるが見る角度を変えて今回再度記述しておきたい。
ここでいう「下町」とは具体的にどの地域を指すのかという疑問が出ると思うが色々な理由があり,東京の城北地区,更には板橋区に集積している中小加工業の集積地域に限定して話題を進めたいと思う。
順調に進んだかに見えたこれら技術の伝承は2000年代に入るとPCのハード,ソフトの驚異的な発展により「自動設計」の名に覆いつぶされて「幾何光学」は世上から抹消されてしまったかに見えたが,その現象に反省する動き2)もやや見えたのは喜ばしい限りで合った。常々幾何光学の再学習の必要性を思っていた一人である筆者はいくつかの事例を基に幾何光学必要論を記述したい。もちろん非才なる故に単なる漫談に終わることも承知の上で…
3.光学製品開発製造の流れ
光学製品は技術的な特性からかノウハウとして扱われる作業が昔から外部秘とされることが多く,関連企業社員であっても知らないことが多いので全体の主な流れを図1に示す。
以下の工程は試作品や少量ロット製造の工程であり,量産の工程とは全く異なる。工程内①は客先あるいは自社営業部門が担当する。工程②でレンズ設計担当者の業務となりレンズ図面の出図を以て作業完了となる。工程③以降がいわゆる下請け作業となりそれぞれの工程別に小企業が存在したり,または企業規模が若干大きな会社であれば複数の工程を引き受ける場合もある。
従来は工程①,②までは大手光学メーカーが責任を持つためにレンズ単体部品図及び作業指示書の出図までを担当し以降の工程を担当する下請け企業との境界線となる。そのため工程③以降の企業工場には生産技術者は必要でも設計技術者は不要とされていた。
4.マチの設計屋の仕事
レンズの研磨加工品と機械加工品との部品単体での加工精度の優劣に関しては加工職人個人の技術評価にも拘ることから両者の間では「技術の攻めぎ合い」が絶え間ない。レンズ屋といえども機械加工の難点や組立の難易度に関しては自学自習をすることとなる。いわゆる「マチの設計屋」に博学家が多いのもこのあたりに原因があるのではないかと思う。
しかし効率重視の量産技術は極限の製品価値を常に追い求める試作技術とは一線を引かざるを得ない。この辺りがいわゆる町の一匹屋というかフリーランサーとして仕事をする設計屋の一番楽しい作業である。少し資本の大きな中小企業に籍を置く設計技術者も作業の実体はフリーランサーに限りなく近く,心理的にはかなり楽しい筈である。
但し光学系・レンズ設計を外注する際は発注者と受注者との間には厳然とした境界線が存在する。この境界線を挟んで受注設計者を悩ませる項目・仕様に関して具体的な事例を含めて作業の流れを追ってみたい。
4-1 画角の規定
例えばセンサーサイズと画角が決まれば残りの焦点距離は自ずと決定される。有限共役の場合は結像倍率で代用する。
4-2 明るさの規定
写真レンズの場合にはFナンバーが最もポピュラーであるが有限共役であれば像側でのNAがあれば必要十分である。
4-3 解像力または分解能
以前のように銀塩フィルムが主役であった時代にはフィルムの使用方法や特性等も公開され発注者側願望のおおよそは知ることが可能で初回打ち合わせ時にもそれほど戸惑うことなく円滑に工程が進んだものである。しかし周知のごとくピクセルサイズから来るナイキスト周波数から読みだす最大空間周波数を定義しても現実にはセンサーの空間的な変動,時間的な特性の変動を考慮するとナイキスト周波数の無意味さに愕然とすることになる。同様なあいまいさが画質評価に使われているMTFにも存在する。しかも発注者がこれらの仕様を発注者側が決定することであると信じ込んでいるケースが少なからずあることが打ち合わせ時の混乱を招く一因になっているとも考えられる。
更にこの現象が進むと発注者が受注者に対して収差補正にまで言及するケースも出てくることさえある。
4-4 量産時の製造原価
一般的には発注者側の願望になるが試作を行うのは量産の可能性がある場合が多い為,両者の駆け引きの最大イベントとなる。もちろん設計担当者は量産時にいかなる工法を用いるかについて熟知している必要がある。あるいはそれを将来の流れとしてリコメンドすることも重要な業務である。
5.幾何光学
我々下町の光学設計屋は幾何光学を基盤に生計を立てている。正確には波動光学のごく一部をも利用している。幾何光学というのはニュートンの時代まで遡れば実に300年を超える時間をかけて築き上げてきた科学のピラミッドと言える。
少し前になるがPCと呼ばれる小型計算機が開発されて,更にそれ用に小型化された「最適化」ソフトウエアが積まれ誰でもがソフトを使えるという時代になった。しかしこの40年間での最大の誤算はこのソフトを「自動設計ソフト」と名付けたことではなかろうか。幾何光学の教科書を斜め読みして「思ったより理解が容易だ。適当なソフトを購入すれば全ての収差をゼロとしたレンズが設計できそうだ」と考えた人がいかに多かったことか。
数百年をかけてその時代の英知が作り上げた理論が「幾何光学」なのである。PC取説の中での五合目あたりで遭遇した未知なる一語を知りたいならば,すぐ傍らにある数行の解説文を一読することにより知識を得ることが可能である。しかし幾何光学として進む場合は三合目までいったん下がってから再度教科書を詳読することである。これが最も早く光学を習得する道となる。他の学問でも同じであるが,幾何光学の習得に決して短絡できる道はない。ピラミッドの麓から頂点までの連綿として理論的に継続していく様は実に美しく,一つずつ理解していくことは実に楽しい。
6.下町の幾何光学
閑話休題。それでは「下町」で「幾何光学」が如何にして,あるいは如何なる形で活きているかの具体例を挙げ乍ら記述してみたい。
6-1 近軸領域の設計 -6個の基礎的数値
一般的なレンズは複数のレンズを各々ある間隔をおいて配列している。収差を小さく抑えるためならば複数のレンズを重ねることが可能だが,その際にいくつかの収差補正のための必要条件を作り上げなければならない。
テッサーの例での光路図を図2及び近軸領域での光路図を図3に示す。必要な数値は近軸領域での値とする。この時に用いる値はR,D,Nの他に軸上色収差⊿p’,焦点距離の色収差⊿fがあるがこの6個の数値の具体的な求め方は文献2)を参照されたい。
6-2 近軸領域の設計 -色収差の設定
2波長での光線追跡の結果から軸上色収差が求まり,その2本の光線の像面に対する傾斜角の差から焦点距離の色収差が求まる。この軸上色収差と焦点距離の色収差との関係については他書3)に詳しい解説がある。
もちろんそれまでに標準光束での焦点距離とバックフォーカス等は求められていることが前提である。
6-3 近軸領域の設計 – パワー配分
1つのシステム光学系とその構成要素の単体レンズとの関係を(1)式に示す。
各構成レンズの焦点距離の逆数を屈折パワーと呼ぶ(略してパワーと呼ぶことが多い)。図2を一瞥するだけでどのくらいのパワーが全体の前方か後方に位置しているかが納得できる。このパワーの集積が全体におけるパワーの重心に対応しているともいえる。例えば焦点距離に比べてバックフォーカスを長くしたければ(レトロフォーカスの場合)この重心を後方に移動させる必要がある。
構成レンズ全体の構成レンズに対する寄与量は hi/h1 係数を掛け算した量に減少する。この図を見ることにより定性的ではあるが各レンズタイプのパワー配分の特徴等を知ることが可能である。
パワー配分を操作しようとする時,屈折率の異なるガラス材料と置き換えるかレンズ間隔を微小量変化させることによりこの目的を達成することが可能である。
一組のレンズのパワーは入射する光束の太さhに対して通過する光束の太さの比率だけ減少したパワーの和となる。
例えば一組のシステム中の1枚のレンズの面精度は hn⁄h1 だけ減少しても良いということになる。
6-4 近軸領域の設計 - ペッツヴァール和の設定
(2)式は最近の教科書には比較的良く取り上げられてきているので記憶にある方も多いと思う。
(2)式のRは最終像面での像面湾曲の曲率半径を示す指標となるためPをゼロに持ってくるようなパワー配列が必要となる。像面湾曲をゼロとする 即ちR∝∞ を目標とする。
一方で(1)式を満足することも近軸領域設計の為に必要条件となるので常に(1)式と(2)式の動きに着目しながらこの二つの必要条件を同時に満足させるような解を求める必要がある。
6-5 近軸領域の設計 - レンズ設計の必要条件
近軸領域の設計が終わったと称するためには以下の6個の値を確定する必要がある。
・ f’ : 近軸焦点距離
・ p’ : レンズ最後端面から近軸焦点の位置までの距離。バックフォーカス
・∆f : 基準波長による焦点距離と第二波長による焦点距離との差
・∆p’: 基準波長と第二波長による焦点位置の差
・ P : レンズ系全体でのペッツヴァール和
・ L : レンズ系全体での第一面から最終面までの長さ
これらの初期値と初期条件(設計仕様)が確認できれば現代のPC全盛時代においては一般的な市販の光学ソフトウエアへ初期データを投入すれば第一段階での解が得られることであろう。これらの必要条件が適当でさえあれば収差領域で構成レンズにベンディング操作を与えることのみで恐らくは収差補正が完了するであろう。
本来はPCを使うことなく近軸領域のみでの作業で設計の第一ステップが完了する。
7.終わりに
当然のことながらこのステップの次にPCを使用しての収差の微妙な補正という作業に入ることになるが類書も多く,またページの制約もあることなどから一旦ページを置くこととする。
レンズ設計というのは近軸領域,三次ザイデル領域,更にその上に高次収差領域と階層的に繋がって成り立っている技術であることを多少なりとも感じ取っていただければ幸甚である。
駆け足ではあるが「下町の光学設計」をテーマとしたマチの設計屋としての仕事内容及び幾何光学の重要性を筆者なりの視点で書き記してきた。今後の設計時に行き詰った時,こんな話もあったなと片隅に残していただけたら幸いである。
参考文献
1) 光設計研究グループ機関誌No.49 P-101「板橋区と光学」 油 大作
2) 日本光学会主催 第35回冬期講習会テキスト
P-15三次ザイデル係数を用いたレンズ設計 油 大作
3) 日刊工業新聞社「光学設計の基礎知識」 牛山善太