「ものづくりとデザイン」について学んだこと・感じたこと
CONTENTS
※参考文献
「デザインのデザイン」
著者:原 研哉
出版社:岩波書店
プロダクトデザインについて学ぶ方にはおススメ。
デザインの歴史や思想からの基礎が学べ、ものづくりとデザイン、マーケテイングが学べます。
※「デザインのデザイン」より
「産業革命」の機械化による美意識低下の反発がはじまり
デザインという概念の発生は、約150年ほど前に遡る。
社会思想家のジョン・ラスキンや同じく思想家であり芸術運動家であったウイリアム・モリスの思想が源流と考えられている。19世紀の半ばイギリスは産業革命により機械化が進んだ。この機械が作り出した製品は手仕事が長い時間をかけて磨きぬいてきた果ての「形」が機械によって浅薄に解釈していき、また異常な速度で量産されていった。この状況に自分たちの生活や文化に愛着を持つ人々が、何かを失ってしまう危機感と美意識の痛みを感じ「がまんならぬ!!」と異議を唱えた。その代表者がラスキンやモリスだったという。つまり生活環境を激変させる産業メカニズムの中に潜む鈍感さや不成熟に対する感受性の反発が「デザイン」という思想の発端に繋がったという。
しかし職人の技術を擁護し復興させようとしたこの反発も大量生産・大量消費という機械化の時流には逆らえなかった。それでもセンス(ものづくりと生活の関係に喜びを生み出す源泉が存在するという着眼あるいは感性)は「デザイン」という思想として、のちのデザイン運動家たちに支持され社会に深い影響を与えた。
その後、装飾様式や職人的技巧は解体され統合される。
20世紀になり、様々な芸術運動が起こり様々な造形概念がこのころ一度整理され統合されていった。その一人がバウハウスだった。バウハウスはドイツのワイマールに創設された造形教育機関であり活動家であった。この教育機関では、機械生産はポジティブに受け入れられていた。この当時ヨーロッパのあらゆる地域で、装飾芸術の歴史で蓄積された装飾様式や職人的技巧、貴族的な趣味性などは解体されていった。解体後、細かく分解された造形に関わる基本的要素(色彩・形態・テクスチャー、素材、リズム、空間、運動、点、線、面・・など)はバウハウスにより整理整頓され、その後モダニズムという枠組みの中で、デザインという概念がバウハウスを契機として非常に純粋な形で成熟していった。
ここまでのお話で管理人が感じたこと。
「デザイン思想誕生」は産業革命が要因ってことに驚いた。産業革命に対する感受性の反発は、人々の心に眠っている美意識や誇りを呼び起こした。もちろん大量生産によって生活が豊かになり心の満足感を得た人も多いと思う。しかしその一方で単に製品を消費することに豊かさを感じない人も一定数いる。このことを証明した気がする。同時に如何にデザインが重要かを意味している気がする。そしてデザインは心を豊かにする要素の一つでもあると分かった。
さらに、管理人は今後、産業革命と同じようなことが起こると感じている。
なぜなら、地球上の資源が枯渇しつつあるから。
資源が枯渇し使用できる素材が限られてくる。そうなると「つまらない!!」と思う人は一定数いると思うし、その反発は大きくなると思う。現に温暖化の為プラスチック素材は制限する動きは生まれているし、ブランド品では以前生産されていた毛皮製品もフェイクファーとして代替品を使うようなった。また「古着」「リサイクルショップ」が市場で活発化している。「昭和レトロ家電」も人気だ。古着が人気なのは凄く理解できる。1点もののおしゃれな服を選ぶなら、ひと昔前のデザインの方が魅力的なファッションが多かったと管理人自身感じている。つまり素材の制限は表現力の限界を生み、そのことに反発する力が生まれるのは必然と思える。
そして、その反発する力は今後少なくとも2つの方向に向かうと思う。←管理人の予想。
一つは、「古着」「リサイクルショップ」といったレトロの方向。
もう一つはデジタルの方向。段階を経て最終的にメタバースに繋がってくると思う。
ここのところは、別の機会で。
※「デザインのデザイン」より
日本における戦後のプロダクトデザイン戦略
モダニズムの影響力の下で、日本は独自のデザイン思想を常に模索していた。
そんな中、民衆の生活にもとづいた「民芸」は一つの思想として簡潔さを持ち、西洋のモダニズムに対置出来る美学を持っていた。他方において、日本の産業デザインは生活文化の方ではなく経済の方向に向いていった。戦争の壊滅的な打撃から復興しようとする経済を背景に、日本の産業が世界の製品工場と化したことが、産業デザインと文化デザインとを分断した。
産業デザインの中ではデザイナーの個性は抑制され、ものを計画、生産、販売する企業の意志や戦略が正確に反映されている。日本企業は、デザイナーを企業の内側に置き、エンジニアリングとデザインの緊密な連繁を実現させ、規格、大量生産を綿密に管理し、ハイ・スタンダードな製品の品質を世界に示した。こうして信頼と成功をおさめたことが日本企業の製品デザインの背景である。
ここまでのお話で管理人が感じたこと。
日本のデザイン思想を遡ると戦後の復興が影響していることを初めて理解した。そして、このことが今日のベースになっており今なおその影響は大きい。特に日本の中心産業の自動車。デザインより機能性重視。機能が良いから世界中で売れる。そして、大量生産する上で重要なのが製品管理。製品の不良品を減らし合理的に大量生産しながらコスト削減を行う。これが日本の産業思想。1分間にどのぐらい高品質に生産できるのか?を重要視する。魅力的なデザインを軽視している訳ではないけれど、大幅な生産ラインの変更の求めるデザインは簡単には容認できない。
その理由は、おそらく莫大な設備投資も関係してくるのだと思う。
結果、デザイナーを雇い企業の内側に置くことを望む。外部のデザイナーは積極的には使わない。そして企業内のデザイナーは与えられた制限の中でデザインするしかない。これが大量生産、高品質を可能にしている。このことは自動車産業だけでなく、あらゆる業界で起こっていて多くの企業精神となって浸透している。あまりにも浸透していたから当たり前のことと思っていました。
でも、海外を見たらプロダクトデザインは全然思想が違っていた。
このことに気が付いたことでも、学んだ価値はありました!!
※「デザインのデザイン」より
日本における戦後のプロダクトデザイン戦略
アメリカにおけるデザインは経済の発展を支えるマーケテイングの一環として、よりヴィヴィッドな色彩を放ってきた。そして市場分析や経営戦略と結びついてプラグマティックな形で進化していった。アメリカで1930年代に起こった「流線形」の流行はデザインによるプロダクト・フォームの差異化の発端となった。この差異化はアメリカ経済の中で「経営資源としてのデザインの運用」という思想を生みだした。そして消費への欲望は「新奇性」によって鼓舞されると見抜いた企業家たちは「スタイルチェンジ」という役回りでデザインを重用していった。スタイルチェンジは、既知の製品を旧式なものへと廊下、変容させた。「今日あるものを明日古く見せる」というデザイン戦略は消費を動機づける目的で計画され、次々と製品の外観を変転させていった。以降、世界のあらゆる場所で車、AV機器、照明機器、家具、生活雑貨、パッケージなどあらゆるプロダクツは、スタイルチェンジを通してその存在を主張し、消費者の欲望を揺さぶっていった。
ここまでのお話で管理人が感じたこと。
日本のデザイン思想と全くちが~う!!
日本は製品の「生産管理」が重要だから、企業の内側にデザインチームが存在する。だけど、アメリカは生産管理主義ではない。国民性もあるのかもしれないけれど、「新奇性」や新しいモノ好きなので、デザインはガラッと変える必要がある。合理的生産管理は二の次に思える。
そう思うと、製品開発のスタートから考え方が違うから結果出来上がる製品も違う。そして、管理より売れる事。見た目からワクワク感をイメージさせ、消費者の心をくすぐることが売上アップにつながると考えている。反対に日本人の心に響く製品は、機能や品質、サービスだと思う。
もう一つ気が付いた!
アメリカは企業や製品の新陳代謝が活発。競争が激しい。投資も活発。
だからデザイン戦略も重要な要素になると考えられる。
「もうそれ古いよ!!」って思わせなくてはいけないのね!!
なるほど!!
デザインには力がある。。
※「デザインのデザイン」より
デザインの社会的価値
ドイツでは、ウルム造形大学が「外界環境形成」という概念を打ち出した。デザインはここでは環境へ向かう思想として学び、そのカリキュラムは建築、環境、プロダクト・フォームヴィジュアル・コミュニケーション、インフォメーションが示されていた。カリキュラムには、色彩や形態を扱う知識や訓練のみならず、哲学、情報美学、人間工学、数学、サイバネティックス、そして諸科学の基礎などが網羅されていた。このことは工芸や美術のジャンルとしての教育構想ではなく「総合的な人間学」「総合造形科学」として学んだ。また環境全体に影響を与える「デザイナー」という存在の背景にどのような思想や知識体系を置くべきか熟考され、デザイン概念は深化していった。
イタリアでは、ドイツとは対照的にラテン的な明るさで近代デザインを発展していった。ミケランジェロやダヴィンチを身近に感じたイタリアン・デザインは自由で伸びやかな独創性、闊達なダイナミズムはデザインのもう一つの魅力であった。また大量生産ではなく小規模工業生産の中で、アイデアや造形を高い精度で実現し、職人の手仕事工程の一部に取り込むことでイタリアのデザインは、独創性と高度な品質を実現した。
ヨーロッパのデザインは、個々のデザイナーの独立性とともにクラフトマンシップのなごりを感じることができる。また個人の才能と職人的品質を併せ持つ優秀な作品は、市場で優位性を持ち、特別な「価値」として保存された。これが「ブランド」という社会認知に繋がり、製品の品質や素性を保証する「商標」はいつしか世界市場に対しても力をもつようになり、デザインの潜在力は大きな力を発揮することになった。やがてデザインはアメリカでもマーケテイングの一環として研究され、製品のデザイン、企業イメージの管理、広告戦略として大きな力を発揮した。
ここまでのお話で管理人が感じたこと。
よく考えれば「ブランド」というイメージは特にヨーロッパが特に強い。
それは、個々のデザイナーセンスと伝統的職人的気質と品質が合わさったものに社会的価値があることに気が付いたからと分かった。産業革命以降、ヨーロッパでは多くの人がデザイン概念を追求しその根底にある構成を分かりやすく分析し分解した。その中には哲学、情報、、人間工学、数学・・・等様々あった。こうした追求が、より多くのデザイナーを成長させ、より高品質な製品に繋がったと思います。そしてデザインは一製品という枠を超えて社会、環境にも影響あたえ、その中で個人の才能と伝統的職人品質は「特に価値あるもの」として認識されたのが「ブランド」という概念を生み出したと分かりました。
このヨーロッパのデザイン思想は、日本やアメリカのデザイン思想とも全く異なるもの。長年の伝統的な装飾と美的センスが培った結果と感じました。
デザイン思想は、各国の歴史や時代背景によって全く異なるものを生み出す。
これって面白いなぁと思いました。
デザインとアートの違いってなんだろう?
前回の続きで、「デザインのデザイン」を読み、はじめてデザインとアートの違いについて考えた。
今までちゃんと考えたことがなかった。
本の中では、デザインとアートの違いは、
デザインは個人の自己表出が動機ではなく社会の多くの人々と共有できる問題を発見し解決していくプロセスにデザインの本質がある。対してアートは個人が社会に向き合う個人的な意思表明であってその発生起源は個的なものと書かれていた。
だけど、人によっては解釈が微妙に違うように思えた。
たとえば、他の人は
「説明が求められるのがデザイン、自由な解釈ができるのがアート」
「クライアントの目的達成のために制作したものがデザイン、作者が作者自身の表現のために制作したものがアート」
「問題を解決する為に使われるのがデザイン、表現と創造するものがアート」
「お客さんや不特定多数の人に対しての答えがデザイン、自分の思いを表現したものアート」
これらを簡単にまとめると、
デザインは社会の為に制作されたもので、アートは個人的な想いを表現したものと解釈できる。つまり、「社会と個人」の違いなのですね。ただし、明確な定義は確定されていない。
それがデザインやアートの世界なのかもしれないですね。
そうなると、「デザイン」の方が表現の範囲は限界があるのかもしれない。社会の問題解決の為なのであればバンクシーのような風刺画は描けないし、日本のように製品の生産管理が目的なら奇抜なものは出来ない。コストがかかるから。そう思うと日本企業は「デザイン=コスト」と考えているのかな??と感じる部分も多い。
少なくとも「ものづくり」においてデザインは優先順位が低い傾向にあるのは間違いない。(←経験済み)
もしかしたら男性社会というのも関係している気がします。聞こえてくる会話は製品の機能性や精度を重要視し、いかに製品を印象的にデザイン性ある表現にするかは全体的にあまり意識されていないように思えます。
例えば製品写真を綺麗に撮影するとか・・・。
プレゼン資料をどう分かりやすく作るとか・・・。
頑張って動画でPRするとか・・・。
このあたりって営業目線から言えば、すごく重要なところなんですよぉ。
上手な製品PRって技術に対する信頼、安心感を与えさらに高級感が生まれる。
それがブランドに繋がっていくんですよぉ。
きっとこれが「デザイン」の本質の一つと思う。
コンピュータは「道具」ではなく「素材」である。
前回は、「デザインとアートの違い」を学び、
デザインは社会の為に制作されたもので、アートは個人的な想いを表現したものと理解しました。
今日は「デザインのデザイン」の本の中で、
コンピューターテクノロジーについて次のように書かれており、これも大事なことと思いました。メモメモ( ..)φ
コンピューターは「道具」ではなく「素材」である。
マサチューセッツ工科大学の前田ジョンさんが表現したもので、与えられたソフトウエアを鵜呑みにしてコンピューターを使うのではなく、数字によって構築された新たな素材によってどのような知の世界が開拓できるかを深く精密に考える必要があると書かれていました。
テクノロジーを「数字によって構築された新たな素材」と考えるのは新たなデザイン世界の可能性を感じた。
素材というのは、人間が物質的に手で触れられるものだけではない。また現実の世界にあるものだけではない。
コンピューターの中には別空間があり、これらは全て素材なんだと分かった。新しい視点を戴いた!!
またこのことは同時に「数字」は計算だけの世界ではないことを意味していると思う。
よくよく考えると、「数字」は色や形、音も操れる。何でも創造できる。
人の五感を研ぎ澄ませるには十分な刺激的素材と思った。
また印刷では難しい色の鮮やかなビビットカラーだって表現できる。(※CMYKとRBGの違い)
さらに数字は「時間」すらもコントロールできる。だからアニメや映画は人の心の奥まで響く。
つまり、テクノロジーは現実の世界よりもず~っと表現力が豊かでその幅や限界は想像以上に広い。
そう思うと、コンピューターの空間はとても大きな創造性の泉が湧き出ているように感じた。
ただし、現実の世界しか味わえない感性というものも存在することを忘れてはいけない。
制限があるからこそ生まれる感性もある。
なるほどね!!この気づきはとても大きい!!
テクノロジーは科学技術の発展だけでなくデザインやアートの世界でも「素材」として新価値が創出できるんだ。
今まではテクノロジーを物質的な技術の発展という側面で見ていた。
つまり「ものづくり」を技術的な視点のみ考えていると、視野が狭くなってしまう。
そして感性も鈍くなってしまう。自分の限界も狭めてしまう。
「デザイン」はきっと、もっともっと広く、奥が深いと思う。
そして大きく俯瞰した目で、「ものづくり」と「デザイン」を見なくてはいけない。
隠れたところにあらゆる可能性が秘められている。自分の意識を変えないと気が付かないし、気が付けない。
まだモヤモヤとした状態だけれど、今日は何かを新しいものを発見した気分だぁ!!
時代や環境変化で「再定義」や「リ・デザイン」は必要になる
このモノマナにも何度か書いていますが、ものづくりを勉強すると「再定義」の重要性に気が付きます。
そして製品は何度も「再定義」が行われ進化している。その代表例が携帯電話からスマートフォンへの進化だ。
ショルダーフォン→ポケベル→PHS→携帯電話→スマートフォン
固定電話から移動式電話が生まれ、通話機能のみだった携帯電話は何度も「再定義」が起こり、今ではあらゆる情報を送受信できるスマートフォンへ進化した。「再定義の繰り返し」だった。そして「デザインとは何か?」を勉強しているとデザインの進化はものづくりの進化と似ていることに気が付いた。原研哉様の「デザインのデザイン」では、もう一つ重要なことが書かれていました。
日常を未知化する。
どういうことかというと、デザインのやり直しの「リ・デザイン」である。
ごく身近なもののデザインを一から考え直してみることで、誰にでもよく分かる姿でデザインのリアリティを探る。
ゼロから新しいものを生み出すことも創造だが、既知のものを未知化することもまた創造である。
原研哉様は、徹底的な「リ・デザイン」を行い、松屋銀座のリニューアルや無印良品の再建に貢献された。
松屋銀座の場合、当時銀座周辺にはルイヴィトンがオープンするなどファッションブランドの中心街として変貌していた時代だった。それまでの松屋銀座は良質な生活を提供する「生活デザイン」イメージの百貨店だった。リニューアルを機に「ファッション」へとイメージをシフトする必要があった。この時、原研哉様は、鮮度のある情報の広告だけでは効果が薄いと感じ、触覚を刺激する「空間の肌触り」を感じる百貨店へと「リ・デザイン」することを決めた。重要なポイントは、個性の強い世界のファッションブランドを松屋銀座がいかに自然に包括出来るかという点だった。ブランドを百貨店に無理やり押し込んだ印象は避けたい。エレガントな包括力を生むようにしたかったという。そこで「白」と「テクスチャ―」を採用した。白という色彩は「背景性」「包括力」「現代性」「品位」「高級感」「刷新性」などを想起させる力がある。そしてテクスチャーと組み合わせることで、新しい松屋銀座のイメージを作ることに成功した。
また無印良品の場合も時代とともにイメージを変化する必要があった。
無印良品は西友のプライベートブランドとして発足し、生産プロセスを徹底して簡素化することで、非常にシンプルで低価格の商品だった。最初の頃は価格面で優位性があったが、海外の安い労働コストの中でその優位性が維持できなくなり「リ・デザイン」をする必要性があった。無印良品は、新奇な素材、独自性や希少性を競うブランドとしてではなく、また安価な素材を使って生産プロセスをギリギリまで簡略したものではない。最適な素材と製法、形を模索しながら、「素」あるいは「簡素さ」の中に新しい価値観や美意識を生み出し、最低価格ではなく最も賢い低価格帯を実現していくことだった。こうやって無印良品を「リ・デザイン」し、再建することに成功した。
ここから分かったことは、時代や社会環境が変化していく中で、必ず「再定義」や「リ・デザイン」は必要になるということ。そうしないと、その時代や環境に適さなくなり取り残され企業は倒産します。だから「再定義」や「リ・デザイン」は常に一定間隔で起こっていると思った。そして、これらは別の言い方をすれば「イノベーション」とも呼ばれている気がした。
ようやく少し分かりかけてきた気がする。
イノベーションとはゼロから創造するものもあるが、そのほとんどは既に存在しているものを「再定義」「リ・デザイン」されて創造されたものであるということ。その中には、その時代や環境に適した思想、生活、哲学が隠されていること。そして、製品を含め日常には、常にあらゆる可能性が秘められていること。
ものづくりとデザインでこんな重要な共通点が隠されているなんて驚いたな~~!!
本当に勉強して良かったです。
原研哉様の存在をご紹介して下さったCG制作者山科久夫さんに感謝です。
山科さんは原研哉様のことを尊敬されております。下記のようなメールを頂きました。
何かの参考になればと思います。
私(山科さん)の尊敬する原研哉さんというデザイナーの言葉にこういうのがあります。
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インパクトを持った、人の瞼をこじ開けて入ってくるような強引なデザイン
というのももちろんあるけれど、僕がやろうとしているのは、
知らないうちに染み込んできて、いつの間にか何かを解らせてしまうような、
静かだけれど強力なコミュニケーション ── 。
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